昔、萩原さんと「我々は雑草だから」という話をしてました。元々編集者からデザイナーや経営者という転職で、何の権威も資格もない上にスタート時点は実績ゼロ。名も無くしぶとく体当たりしか出来ない、ぐらいの意味でした。

当初から取引先は版元が主ですが、マンションの1室でやっているようなところから1000億規模のところまで、話があればどこへでもという感じでやってきました。どこに行っても平然とやってこれたのは、どこに行っても勉強させてもらっていると思っていたからだと思います。

ただ自分の方はある時点から、経営者としてこれでいいんだろうかと疑問を抱くようになりました。どこかで峻別を始めていたんですね。ここはもういいんじゃないかとか、ここは気合いをいれてとか。そうするとそういうつもりがなくても大きな所に行くと緊張するようになってしまいました(それは版元ではないです)。そして大抵そういうところは名ばかりでほとんどがスカでした。

業態が受託ですから、ちょっとでも気を緩めると下請けだと恐怖感を持ってやっていたので、そうやってあたりがなくなってくると焦りも出てきます。さらに上(という考えがもう終わってるわけだけど)を目指して一発逆転の気持ちです。そしてその気持ちと裏腹にだんだんくたびれた営業マンの風体に。

難しいのはそういう状況だとしのげるんですよね。それとやっている感もあるし、つき合いも広がるし。あとはサラリーマンとしても中途半端に終わっていたので、ちゃんと部課長っぽく歯を食いしばって、みんなご苦労!と声かけ、ふぅとネクタイ緩めるみたいな、そういう仕事もやってみたいという思い残しもあって。

ただやはり心の奥底でどこかそれは違うと、それがやりたかったわけじゃないと、そういう気持ちが芽生えてくるのもわかりました。何年か前の話です。

そういうときにある経営者の方とお会いしました。今も取引させて頂いていますが、同世代ですでに社員も沢山抱えて大きく事業を展開されていて、十分儲かっているんだから遊びまくってても何の問題もないだろうに、新しいことにも貪欲で。

その方の会社はネットで事業をやっていますが、本人は一切ネットに出てこないし、何か積極的に営業に出ているようにも見えないしで、一度飲んだときにどうやっているのかを聞いてみて、なるほどそうか、そういう立ち位置もあるか、それいいなと思って今に至ります。あえて言えば戦略的な引き籠もり。

翻ってみて何が苦しみの元凶だったのかと考えてみれば、どこかで承認や評価を求めていたんですね実績を出す前に。それもちょっと俯瞰してみればたいしたことの無い村社会で。自分としては脱藩浪士を気取っていても、それは草莽志士のように志を持って新しい場を開拓するのではなく、どこかで上手い仕官先がないかと下卑た気持ちがあったんだと思います。

そう思って言わば心のちょんまげを切ってみれば、何のことはなく昨日と同じ今日であっても見えてくる世界が全く違うことに気付きました。もっともそうなると今度は身近なところに軋轢が生まれてそれを越えるのに時間がかかりましたが、そこはうつけ者と思われておけば万事OKです。

最近、何かの記事で読んでなるほどと思いました。雑草とは望まれないところに生えてくる草のことだと。生えてくる場所をシフトすることで、生き残る戦略があるそうです。

お茶のお稽古に行けていないのですが、茶花を覚えないといけないと思ってました。元来動植物にそれほど興味もないので、面倒なことだなぁと思っていたのですが、そこにまだまだ知識の多さで評価を求めようという心(要するにモテたいという気持ちですな)があることにも気付きました。

成熟社会で花が多い社会になっていると思います。たとえ世界に1つだけの花だとしても、埋もれて生きるのは辛いんじゃないかと思うこの頃、雑草は名のない草花ではなく、生き残りの戦略として生えるべきところではないところに生える選択をした草と思えば、一見地味だけど面白そうな生き方ができそうな気がしています。