すでに梅雨が明けたような天気ですね。最近、雨を鬱陶しくて面倒といった感覚がなくなって、逆に慈雨という言葉を噛みしめるようになりました。もしくは雨降って地固まるといったことも。
そういう意味では、今年は真正面から梅雨を楽しんでみようと思っていたら、あてが外れて晴れ続き。もちろん晴れている方がよいので、それはそれでよいのですが、なぜ雨でも楽しめるようになったのかと、この際振り返ってみました。
大量の天気情報
最大の理由は、テレビを見なくなったこと。もちろん大画面で各種動画サービスはみてますが、それに忙しくて、いわゆるテレビ局の番組を見なくなりました。唯一ニュースは朝晩見ているのですが、これが何かにつけて天気の話題。
世の中平和な証拠で結構なことすが、晴れでも雨でも一大ニュースになっていて、そのうち天候でいちいち何かを左右されるようなことが滑稽なことだなと感じるようになり、夜のニュースで最初が天気の話題であれば、その時点で見るのを止めるようになりました。
晴れの日に傘を借りた
もう一つの理由は、銀行取引が拡大したためで、例の「晴れの日に傘」をヒシヒシと実感するようになったためです。大変ありがたいことですが、まさに備えあれば憂いなし。おかげで多少の雨が降ったところで、ネガティブな感情に陥ることがなくなりました。
晴れの日に傘を借りるからこそ安く借りることができるわけで、特に今は大安売りされていますから、借りておかない手はないということです。それに新品の傘を置いたままにしておくと、雨が降りそうだなとわかったときも、雨にならないようにしよう頑張る思わぬ効能があることもわかりました。
晴れの日は何をするのか
そういうように考えてみると、これまでは雨が降ったらどうしようと、つまり「もしも」のことを中心に考えていて、肝心の晴れの日は勢いにまかせ、あまり深く考えずに動いていたことに気づいて、もったいないことをしていました。
ということで「晴耕雨読」という言葉を思い出して、そういえば雨が降ったら本を読んでというのは実践してきたけど、晴れの日に淡々と耕す畑がどういうもので、耕すとはどういうことかを、本当にじっくりと考えることなくやってこなかったなと感じています。
改めていろいろと周囲の人や環境に恵まれていることに感謝しかありませんが、戦に打って出るばかりで、地道に田畑を耕すことを疎かにしていたかもしれません。
おわりに
こんな四字熟語を安易にタイトルに使おうと考えるだけで我ながら焼きが回った気もするし、晴耕雨読なんて雨の日のタイトルとして選択するイメージを持っていましたが、今更ながら辞書引いてみると、悠々自適な生活を表す言葉なんですよね。豊かな生活を目指すと社内で言っている割には言ってる本人が貧しい発想でした。
今期は個人的にもデジカルとしても、15年目の転換点と設定して進めているのですが、期末が近づいてきて、なるほど物事の受け止め方、考え方の切り替えを求められていたんだなと実感しているところです。
こういうことを書いているということは、いままさに雨が降っているということなのですが、もう晴れ間が見えているので、次に晴れたときにどう動くか、今回は気分や勢いに左右されることのないようじっくり腰据えてと考えています。