ずっと行ってみたいと思って先送りになっていた富岡製糸場です。最近は世界遺産に登録されるされないと話題になっているようですが、調べてみたらクルマで2時間ほどというので半日潰して出かけてきました。
行ってみてわかったことがいくつかありますが、驚いたのは「女工哀史」と富岡製糸場はほぼ無関係なんですね。やはり近代史をなんとなくのぼんやり勉強するのではよろしくない。特にイデオロギー要素が入っている事案については。反省しました。
この富岡製糸場が操業開始したのは明治5年(1872年)女工哀史の発刊は大正14年(1925年)。半世紀も時代が違います。何がどう違ってどういう問題かというのは今回の主題ではないので割愛。
この富岡製糸場は明治国家をあげての一大プロジェクトで、当時の鉄道敷設に並ぶ大事業ですが、工女は武家の子女それも外国人技師が飲むワインを生き血と思ってなり手がないという状況からのスタート。職場環境は当時の先端をいく近代的な労働環境のモデルとなるもので、環境は劣悪どころか当時はまだ概念のなかった休日の設定や、立派な診療所まで完備されていました。
なにより驚いたのは、すぐに民間に払い下げられたのち昭和62年まで建物を変えることなくそのまま115年も稼働していたということですね。
最初は300人の工女が働いていた繰糸場も、最後は数人で機械を監視するまでに進歩しているのですが建物は100年以上前のまま、そこに最後に稼働していた自動繰糸機がそのまま残っています。堅牢に建築した当時の日本人の意気込みを感じることができる建物でもありました。
ちなみに木骨煉瓦造りという建築方法ですが柱に使われている立派な材木は国有林から調達したのでタダだったということです(いまはとてもそんな立派な材木を調達できないそうです)。
この製糸場はいわばモデル工場で、ここで研修を受けた女工が全国に派遣され各地の製糸工場で技術指導をしました。今回初めて製糸事業の流れを細かく理解したのですが、何をどうやって自動化機械化していったのか、それよっていかに生産性があがり結果大きな富を産んでいったのか。そして、そこで働く人が当時どうだったのか。
事業開発の中で、どうやって生産工程を開発していくべきなのか、その実践をしている最中ですので、明治の人々がどう考えてどうしようとしていたのか、それをなぞって考えることが直接的な大ヒントになりました。雇用を作り富を生み出す、そのように考える視点が必要なようです。
当初そこまで深く考えていなかったのですが、アラフォー婦人部で工程開発に着手したのは正解だったと、1時間の見学を終えて確信しました。当時のエリート工女と同じ位置づけで引き続き事業開発を続けます。
ちなみに当時30代半ばだったお雇い外国人技師のフランス人は、工場敷地内に立派な屋敷を建ててもらってそこに住んでいたわけですが、実際は大変寂しい生活でワインを飲んだくれていたようです。個人的には彼にシンパシーを感じる見学だったことを付け加えておきます。
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